信長の野望 武将風雲録 列伝〜中野宗時

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中野宗時(なかの・むねとき)

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①伊達家臣。稙宗・晴宗・輝宗の三代に仕えた。「洞の乱(うつろのらん・天文の乱)」では、晴宗を支持。結果、晴宗政権で、最大勢力を有したという。輝宗から謀叛の嫌疑で追討を受け、流浪の末没した。

②大身の家臣でありながら、生没年不詳、父の名も分からない。奸臣のイメージがあるからだろう。

それは、江戸初期の仙台藩歴史編纂事業で、「伊達騒動」と重ね合わせ、晴宗や宗時を暗愚だと規定する史観ができたためともいわれる。

③晴宗をそそのかして洞の乱を引き起こした元凶のようにもいわれる。

しかし、この内乱には、

・実元上杉入嗣にともなう越後軍事介入の軍役
・新税制としての段銭・棟別銭の賦課
→  家臣の経済的窮乏を招いた

・相馬顕胤への旧相馬領返還
・上杉入嗣にともなう家臣随行案
→ さらなる拡大政策、出費予想

という背景があったという。

稙宗が専制支配の末、家中の支持を失い、晴宗と彼を支持する家臣に当主の座を奪われた結果だとも評価される。

ただ宗時ひとりの讒言で、大乱が勃発するような単純なものではないのだ。

④輝宗と晴宗のいさかいでは、双方の干渉により不和が拡大した。

輝宗の子・藩祖政宗を中心にした史観では、晴宗側の否が喧伝されることになり、必然、晴宗の代から執政を務める、宗時は抵抗勢力の第一、という位置付けになったであろう。

宗時は、輝宗政権下で、恩ある晴宗追及を実行する立場にあり、また、最上氏からは晴宗輝宗の仲裁を依頼されるなど、苦境に立たされていたことが想像される。

⑤輝宗による追討は急に行われたか、宗時は組織的な抵抗もできず、相馬氏を頼って落ち延びる選択をする。

その際、道中の城主は、中野勢を見逃して通行させている。リスクを背負ってまで謀叛人とされた宗時を助けた彼らの心境はどうだったか。個人的な恩や、政治的同情があったとも考えられる。

また、宗時は、のちに帰参を願い出ており、晴宗もこれを後押ししていることから、叛意はなかったのではないだろうか。

輝宗による、宗時をとおした晴宗の影響力排除が実態か。

⑥ゲームでは、イメージどおり義理が低く謀叛人扱い。元家臣で、宗時謀叛を通報したともいわれる、遠藤基信には、政治1負けていたが、スマホ版で1上回り、意地をみせている。

◾️98版
政76/戦32/教68/魅68
◾️スマホ版
政86/戦20/教68/魅68

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